ちひろのゆめ日記

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【検証】本能寺の変が無かったら歴史はどのように変わったのか?

もし本能寺の変が無かったら歴史はどうなっていたでしょうか?本能寺の変と言えば1592年に織田信長明智光秀の謀反によりその生涯を終えた有名な出来事です。仮に本能寺の変が無かったら歴史はどのように変わっていたのでしょう? 今回はこの歴史ついて検証してみました。

 

本能寺の変が無かったら戦国武将達は?

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それでは、最初に本能寺の変が無かったら戦国武将とその武将のゆかりの女性はどうなったか?について説明していきたいと思います。

豊臣秀吉淀君はどうなっていたか?
織田信長明智光秀の謀反に会い、本能寺の変で最期を遂げました。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、その時、毛利氏を攻めてましたが、信長の朴報を知ると、わずか10日間で引き返し、山崎の戦いで光秀に勝利しました。そして、信長の孫の三法師の後見人となることで、天下を掌握する布石を得たのです。

でも、もし本能寺の変が無かったら、どうなっていたでしょう。織田家の家督は、当然の如く信長の息子である信忠に引き継がれ、秀吉は、織田家に仕える一武将として、その一生を終えることになります。 本能寺の変がなかったら、大阪城の築城はなく、秀吉が関白になることもなく、そしてその後の日本を左右する関ヶ原の合戦も起きなかったと言えます。

淀君は、秀吉が滅ぼした浅井長政と信長の妹のお市の方の間にできた姫であり、秀吉にとっては主君の血縁者ということになります。信長に仕える一武将に情が厚かったと言われる信長が、淀君にとっては親の仇になってしまった秀吉に嫁がせるなどとは考えにくいことから、2人の間に秀頼も生まれなかったということになります。

大阪城

明智光秀細川ガラシャはどうなっていたか?
光秀は、細川藤孝・忠興親子と懇意にしていた事実があります。また、光秀は学才のある風流人であったことから、もし本能寺の変がなかったら、文化人、もしくは朝廷や将軍家との間を取り持った立役者として後世に名を遺すことになります。

明智光秀が謀反人として、後世に悪く伝えられているのは、江戸時代の武家制度において、君主は絶対的な存在であるという教育がされていたためです。 また、明智光秀の娘の珠子(後の細川ガラシャ)は、本能寺の変の後、夫である忠興に幽閉されることになりますが、もし本能寺の変がなかったら、幽閉されることもなく、関ヶ原の合戦の際に人質になる話も起きなかったと言えます。

 

柴田勝家お市の方はどうなっていたか?
本能寺の変が無かったら、柴田勝家は、お市の方を妻に迎える必要はありませんでした。 でもお市の方が秀吉を毛嫌いしていたことは事実であり、秀吉の勢力を抑えるため、進んで嫁入りしたかも知れません。柴田勝家お市の方を娶ったのは、清州会議の後の話です。完璧な政略結婚ですが、歴史では、お市の方柴田勝家公と運命を共にしたことから、仲の良い夫婦であったと言えます。

本能寺の変がなかったら幕府はどうなった?

次に、本能寺の変がなかったら幕府はどうなっていたか?について書いてみたいと思います。ここで言う幕府は、足利幕府でも徳川幕府でもなく織田信長が幕府を開いた可能性について述べています。また、その後の政治面での歴史についても検証してみました。

天下布武の印と信長の任官について
織田信長は、天正3年(1575年)に右近衛大将へ任官されました。これにより、武家政権を開くこともできました。藤田達生氏の書籍『信長革命「安土幕府」の衝撃』によれば、信長が右近衛大将に任官したときは従三位権代納言となっており、しかも正式に朝廷の政務評議が催され、宣下されたと書いています。歴史では信長の呼称には将軍相当者の呼称である「公儀」や「上様」が用いられ、書簡も数点残されています。

1573年に信長は、足利義昭を追放していることから、その後名実ともに将軍の地位を掌握したといえますが、歴史では信長が「天下布武」の印を用い始めたのは、1567年であり、任官の時期とずれが生じています。翌年の1568年に足利義昭を奉じ入京していることから、国家を掌握したい野望が「天下布武」の印にこめられたと言えます。

織田信長 天下布武の印

◆信長は幕府をどこに開いたか?
織田信長の居城安土城は、Wikipedia安土城解説によれば、望楼型の山城で地上6階地下1階建てであり、防御策の乏しさから軍事拠点の城ではなく、天下布武のための政治的な機能を優先させて作られた城であるとしています。

信長が安土に城を築いたのは、岐阜よりも京都に近く、琵琶湖の水運も利用できる利便性を重視したと言われています。信長が幕府を開くとしたら、まずは安土であったということができます。

 

◆刀狩と検地は実施したか?

国力増強のため、検地は実施したと考えるのが妥当だと思います。また、農民に武器を持たせると一揆が起こりやすくなることや、武士が武器を手に反旗を翻す危険を回避するために、刀狩と検地は実施したと考えることができます。

因みに秀吉が太閤検地を実施したのは1582年から1598年、刀狩令の発令は1588年であり、1585年の関白になる前から国政に取り組んでいたことがわかります。

 

朝鮮出兵は行なったか?
秀吉は、1587年に九州を平定し全国統一を成し遂げました。そして同じ年に朝鮮国王の来日を要求しています。文禄の役が起きたのは1592年、慶長の役は1597年、そして1598年に秀吉は亡くなっています。なぜ、朝鮮に攻め入ったのかについては、諸説がありますが、筆者は、平定した日本には、戦功を挙げた功労者に分け与える領土が無くなってしまったからだと考えます。

さて、もし本能寺の変が無かったらどうなっていたかですが、信長は、商業の発展に力を尽くしたことから、褒賞は分け与える土地が無くなった場合には領土ではなく通貨で代用したのではと考えます。また、徳川幕府は開墾により石高を増していることから、同じような農業政策を展開したと考えることができるため、朝鮮出兵はなかったと考えます。

 

身分制度はどうなったか?
 信長は、すもう大会などで優勝した者を家臣に取り立てましたが、身分制度を超えて役職につけることはありませんでした。そのことから、当時の身分制度は継続したと考えることができます。 因みに歴史では、秀吉の甥の秀次で1591・92年に掃令を発令し、武家奉公人(兵)・町人・百姓などの身分を制定しています。


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本能寺の変がなかったら桃山文化は?

もし本能寺の変がなかったら、桃山文化はどのような発展を遂げたでしょうか?  以下に記述してみました。

桃山文化は、16世紀後半の信長・秀吉の時代に花開いた文化で、山川出版社の『詳説日本史図録』によれば、仏教色が薄れ、新鮮味あふれる豪華・壮大な文化であり、南蛮文化の影響を受け、そして新興の大名や豪商によって培われた文化であると解説しています。

本能寺の変があってもなくても桃山文化は、南蛮文化の影響は受けたと言えます。当時の日本人にとって、スペインやポルトガルの人達の服装やメガネなどはとても珍しいものであり、興味を示していたことが南蛮屏風などからもうかがえるからです。

 また、西洋の技法は、狩野派に影響を与えたとも言われています。本能寺の変がなかったら桃山文化はもっと南蛮文化を色濃く受け継いだと言えます。

本能寺の変が無かったら鎖国は?

最後に、もし本能寺の変が無かったらキリスト教鎖国はどうなっていたかについて書いてみました。

キリスト教はどうなったか?
 信長が、一向一揆に苦しめられたのは事実であり、その対抗策としてキリスト教には寛大であったことも事実です。また、もし本能寺の変がなかったら、1587年のバテレン追放令は発令されなかったとも言えます。

 バテレン(神父)を追放しなければ日本は、神道仏教と同じようにキリスト教が庶民へ浸透したかも知れません。日本は、多神教の国であり、神を崇め仏を敬う国民性であることから、日本古来の宗教と融合し、日本の国民性と合致したキリスト教に発展したかも知れないのです。

 

鎖国は行なわれなかったか?
 鎖国は、徳川幕府が外交や貿易の利益を独占するために行った施策と言えます。 大名が個々に海外と外交を行なうと日本国の代表がわからなくなるからです。したがって、もし本能寺の変がなかったとしても天下布武の外交窓口統一のため、そして国力維持のため、鎖国は実施したと筆者は考えます。

一つの事件で大きく変わる歴史

日本の歴史は、一つの事件により大きく変わります。本能寺の変が無かったら安土幕府が認知され、豊臣秀吉は一武官で終わり、徳川家康は一大名で終わったかも知れません。世の中は、ひとつの出来事により大きく変わってしまうのです。

安土城
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