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ちひろのゆめ日記

ちひろのゆめ日記というブログ運営してます。 継続は力なりと言う言葉を信じて。

驚愕!実は関ヶ原に加藤清正はいなかった?

歴史

西と東に分けて天下分け目の戦となった関ヶ原には多くの武将が集い様々なエピソードや逸話が大量に残る戦となりました。しかし、この関ヶ原に猛将加藤清正は参戦していません。今回は、この加藤清正が何故関ヶ原にいなかったのかを探っていきます。

 

加藤清正は九州を代表する武将だが…

島津家、大友家、黒田家、竜造寺家など九州には猛将や智将がたくさんいて、戦国時代の中でも華になれる武将が大量にいます。一部は滅びて家も無くなっている状態ですが、肥後国領主となった佐々成政の失敗によって加藤清正は立派に城主を勤め上げ関ヶ原があった時も、熊本城城主として務めを果たしているのです。

 

しかし、この加藤清正関ヶ原に参戦しておりません。九州を代表する島津家の島津義弘は中央突破から撤退するという偉業を成し遂げていましたが、加藤清正は一切話に出てこないで終わってしまっているのです。いったいどこで何をしていたのでしょうか。

加藤清正伊達政宗関ヶ原にいない?

関ヶ原

関ヶ原は天下分け目の戦ですが、実は有名どころでも参戦していない人はたくさんいます。その筆頭が伊達政宗黒田官兵衛直江兼次真田幸村といったところではないでしょうか。これらは非常に有名な武将なので、知らない人は少ないでしょう。NHK大河ドラマでも頻繁に出てくる有名人なので何をやったのかを知らない人でも、名前だけは憶えているはずです。

 

まず、奥州筆頭である伊達政宗は徳川側についており上杉征伐に加わっております。上杉景勝が西軍につくことは徳川家康が知っていたので、この上杉景勝直江兼次最上義光伊達政宗の連合軍が今の山形県秋田県がある出羽国で戦をすることになりました。これは「長谷堂の戦い」とも言われており一部の人たちからは「東の関ヶ原」とも言われております。

 

つまり、伊達政宗最上義光、そして上杉景勝直江兼次は東北で関ヶ原合流阻止のため派手な合戦をしていたのでこれなかったということになります。

この伊達正宗のように黒田官兵衛真田幸村は別の場所で関ヶ原によって引き起こされた戦に参戦しており、あっちこっちでドンパチをしていたのです。いわゆる、関ヶ原にはいなかったけど大きく関与していたと言えるでしょう。


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関ヶ原加藤清正は無関係?

関ヶ原

そして加藤清正関ヶ原の話に戻りますが、実はこの加藤清正大坂の陣にも参戦しておらず日本の大戦には参加していないのです。その最大の理由が謹慎を命じられていたからです。

謹慎理由は島津家内乱の庄内の乱の首謀者・伊集院忠真に加藤清正が関わりそのことが家康に知られて、西軍に加わる危険分子として扱われるようになってしまい謹慎処分を受けてしまうのです。

 

ただ、忘れてはいけないのが関ヶ原によって誘発してしまった戦が日本中に発生しているので、この戦に加藤清正も巻き込まれてしまうということになります。それは先ほど記載した黒田官兵衛の戦とも関係があるのです。

 

加藤清正は秀吉の子飼の人物で影響力もかなりあり、西軍にスカウトされるようになってしまったことで、家康が焦って説得したという説もありますが、結果として九州の戦において黒田官兵衛と組んで小西行長立花宗茂と戦うようになります。この戦によって武功が認められて加増され、52万石の大名となるのですが、加藤清正の忠誠心は豊臣秀吉に向いており秀頼を守る気持ちだけは変わらなかったのです。

家康は関ヶ原加藤清正を呼びたかった?

家康

この関ヶ原を本気で調べた場合、おそらく何年もの月日を費やす必要がありますが、本当なら徳川家康加藤清正を東軍として招きたかったという説も残っているのです。しかし、加藤清正の忠誠心を考えた場合、関ヶ原に呼ぶことは不可能だと言われていました。

その最大の理由が秀頼がこの戦に参戦してしまった場合は、裏切る可能性が非常に高いと考えられていたからです。石田三成とは非常に仲が悪かったという説もありましたが、豊臣秀頼に対する忠誠心は本物であり、その忠誠心からこの戦に参加させるのは得策ではないと考えるのは自然ではないでしょうか。

 

実際に、この忠誠心を表すエピソードはたくさん残っており、加藤清正は二条城会見を取り持って徳川家と豊臣家を仲良くさせるために苦心し、ひたすら豊臣家を残すために政治的才覚を発揮することになるのです。

そのために、動き続けた加藤清正ですが1610年に発病して帰らぬ人となってしまいます。歴史に詳しい人ならすぐに気が付くでしょうが、これは大坂の陣よりも前の年です。つまり、加藤清正大坂の陣に参加したくてもできなかったということになります。

加藤清正はひたすらお互いが戦をしないために努力し続けたのですが、この加藤清正がいなくなることでお互いのタガが外れてしまいました。そのため、戦になってしまったと考えられるのではないでしょうか。

石田三成福島正則とは仲が悪かった?

石田三成加藤清正、そして福島正則は仲が悪かったという説は今でも残っております。石田三成は文官筆頭であり清正も正則も両方とも戦働きが得意な人間でした。

この対立が致命的となったのが朝鮮出兵による衝突です。石田三成の報告によって加藤清正は秀吉から激怒され深い溝ができ決定的な決裂となって相容れない存在となってしまうのです。

しかし、加藤清正と福島正紀が決裂したという逸話はそこまでありません。秀吉の親戚同士である福島正紀と加藤清正は生涯友人だったのではないでしょうか。

加藤清正関ヶ原について まとめ

関ヶ原には逸話が大量に残っていますが、その関ヶ原に参戦できなかった方々もあちらこちらで関連する戦に参戦しているのです。そのことを知らない人も多いので、関ヶ原に参戦していないけど気になる人がいるなら、ちょっと調べてみると面白い話をたくさん見つけることができますよ。


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