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ちひろのゆめ日記

ちひろのゆめ日記というブログ運営してます。 継続は力なりと言う言葉を信じて。

甲斐の虎と恐れられた武田信玄、軍旗「風林火山」に込められた意味

最も偉大な戦国大名の一人、武田信玄の軍旗には、信玄の軍略が書き記されていました。風林火山の旗を掲げ、戦国時代最強と言われた武田騎馬軍団を率いて戦乱の世を戦い抜いた武田信玄とはどのような武将だったのか、風林火山の意味と共に、紐解いていきたいと思います。

名将、武田信玄の誕生

父信虎の追放

風林火山の旗を掲げ、武田騎馬軍団を率いた戦国最強の武将と名高い武田信玄。甲斐国(今の山梨県)の守護武田信虎の嫡子として1521年(大永元年)に武田信玄は誕生します。幼名を太郎、元服後は晴信、出家し法名武田信玄と名乗りました。信玄が生まれた16世紀は、まさに戦乱の世の真っただ中でした。

父信虎は暴君として知られ、その頃の甲斐は続く飢餓、1541年(天文10年)の台風により洪水、山崩れが各地で起こり、国内は荒れ果て、領民たちはその日の食料さえない苦しい状況でした。しかし信虎はその惨状を顧みることなく、領地拡大のための外征を繰り返し、もはや国内の農民、半農民の国人領主の疲弊は限界に達していました。同年、21歳の信玄は、武田家の重臣たちと共に策略を用いて、父信虎を今川義元の配下にある駿河(今の静岡県)へ追いやり国外追放します。これにより信玄は武田家19代目当主となり、民心を得て国主の座に就いたのです。

武田信玄肖像画

軍配を持ち、床机にかける武田信玄山梨県立博物館所蔵)

軍略に優れた武田信玄と、軍旗「風林火山

軍旗「風林火山

風林火山武田信玄を語るとき、この言葉を最初に思い浮かべる人も多いでしょう。もとは古代中国の兵法書孫子」軍争篇の中に書かれた「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如火」の四句であり、動くとなれば風のように素早く行動を起こし、火のように激しく攻めて奪い、時に応じて林のように物音を立てず静まりかえり、山のように動かず陣営を崩すことなし、という意味になります。孫子の旗とも呼ばれ、これを武田軍の信条とし、信玄は見事な統率力で武田軍をまとめ、戦場で強さを発揮します。焦ることなく忍耐強く時を待ち、機となれば怒涛の如く攻める、まさに風林火山の戦略により、信玄は次々と戦で勝利を挙げ、信濃(今の長野県)の大半を領有するまでになりました。

軍旗「風林火山」と、もう一旒の軍旗

信玄は出陣に際し、二旒(りゅう)の軍旗を押し立てたとされます。一旒は先の風林火山の軍旗です。もう一旒は、諏訪法性の旗と呼ばれるもので、旗印に「南無諏訪南宮法性上下大明神」と、諏訪明神の神号が大書されていました。諏訪明神は古くから軍神として崇められ、代々の武田家当主も諏訪明神に厚い信仰を寄せていました。

現存する武田家の軍旗

武田信玄の軍旗「風林火山」は恵林寺の快川紹喜(かいせんじょうき)禅師が揮毫しました。武田家の軍旗は雲峰寺に六旒、恵林寺に一旒が現存しています。紺色の絹地に金粉文字で記されたものが風林火山の旗、赤色の絹地に同じく金粉文字で記されたものが諏訪神号の旗です。諏訪神号の旗とは、諏訪法性の旗、諏訪明神の旗、諏訪梵字の旗の総称です。臨済宗妙心寺派 裂石山雲峰寺(さけいしざんうんぽうじ)宝物殿に今も保存されています。

軍旗「風林火山」

現存する風林火山の旗(雲峰寺所蔵)

軍旗「諏訪明神の旗」

諏訪明神の神号が書かれた旗(雲峰寺所蔵)

雲峰寺の宝物殿には武田家ゆかりの品々が大切に保管され、武田信玄の書も見ることができます。参詣された折には、是非一度、現存する風林火山の旗をご覧になられてはいかがでしょう。

領民を大切にした武田信玄の政治とは

人は城、人は石垣、人は堀

風林火山の戦略で知られる武田信玄は、領国経営にも手腕を発揮していきます。領地拡大を着実に推し進めていく一方で、自国内の整備にも力を注ぎました。「人は城、人は石垣、人は堀」、信玄が詠んだとされるこの歌にこそ、信玄の領国経営の姿勢が如実に表れているでしょう。

甲斐の国は、四方を峻険な山岳地帯に囲まれ、中央にも奥秩父山塊が横たわるという、厳しい立地でした。それ故に土地は痩せ、また海からも遠く、交通の大動脈からも外れており、軍事に必要な経済力が乏しく、力と言えるものは代々の家臣や甲斐武士団、農民層とのつながりでした。つまり「人」こそ、信玄にとって財産であったのです。信玄の統率力と人望が風林火山の旗の元、戦国最強の武田軍を作り上げたと言えるでしょう。

国主としての武田信玄

信玄は「甲州法度之次第」という法律を制定します。また孫子を読み孫子に学んだ信玄は、治水事業として、頻繁に洪水を起こして被害をもたらした笛吹川に堤防を建設します。のちに「信玄堤」と呼ばれ、人々を河川の氾濫から守りました。さらに、鉱山発掘による金の産出が軍事力を支えました。信玄は度量衡の統一を行ったことでも知られますが、甲州金と呼ばれる金貨を作り、戦場で手柄をたてた者には金貨を手渡したと言われています。このようにして領国民たちの心をつかんでいったのです。信玄は武将として優れていたのみならず、国主として政治にも非常に有能であったと言えます。

川中島の合戦、やがて武田家滅亡へ

武田信玄上杉謙信

やがて歴史上最も激しい合戦と伝えられる川中島の合戦を迎えることになります。「戦いの神、毘沙門天の化身」と畏れられた越後(今の新潟県)の上杉謙信と、関東の覇権をかけて争いが始まりました。謙信はこの時、弱冠24歳でした。両軍とも戦力、戦略において互いに譲ることなく、この合戦は天文22年(1553年)の第一次川中島の合戦から始まり、永禄7年(1564年)の第五次川中島の合戦で幕を引きます。二名の猛将の激しい激突は決着を付けることなく、痛み分けとして終わりました。その後、戦場で両雄がまみえることはありませんでした。

武田信玄の遺言と、菩提寺恵林寺

川中島の合戦後、信玄は西へ領土拡大を続け、いよいよ上洛を目指し、織田信長と天下争いを始めようという矢先、志半ばにして信玄は病に倒れこの世を去ります。信玄53歳、天正元年(1573年)でした。死に臨んで信玄は息子勝頼に、3年間は自分の死を隠し国内の基礎を固めるよう、そして上杉謙信と和議を結ぶよう遺言しました。しかし信玄亡き後、武田軍は求心力を失い、やがて滅亡へと向かっていくことになるのです。信玄の菩提は、乾徳山恵林寺(けんとくさんえりんじ)で今も静かに弔われています。

恵林寺三門

武田信玄の菩提を弔う恵林寺
信玄亡き後、織田信長により焼き払われ、徳川の時代に再建された

小説、大河ドラマでも有名な「風林火山

小説「風林火山

武田信玄の生涯を描いた小説やドラマは数多くありますが、井上靖の長編歴史小説風林火山」を読まれた方も多いのではないでしょうか。信玄の軍師、山本勘助の物語から始まり、やがて川中島の合戦へと展開してきます。2007年のNHK大河ドラマ風林火山」の原作でもあります。この他にも新田二郎の小説「武田信玄」全4巻も有名です。それぞれの巻に風林火山から一字ずつ取り、風の巻、林の巻、火の巻、山の巻と付けられています。文豪たちの手によって小説の中に描かれた信玄像と、じっくり向き合ってみてはいかがでしょう。

武田家ゆかりの品々の展示について

2007年NHK大河ドラマ風林火山」の舞台となった山梨県甲府市、武田家の菩提寺恵林寺内に「信玄公宝物館」があります。風林火山の旗、諏訪法性の旗のほかに、信玄が着用したとされる兜、軍配など数々の品が展示されています。また「山梨県立博物館」では信玄肖像画や、信玄と関わりのある文書など、貴重な資料を所蔵しています。信玄の企画展を開催されたこともあるので、興味のある方はお問い合わせをされてみてください。

武田信玄と「風林火山」のまとめ

稀代の名将、武田信玄とその軍旗「風林火山」について書いてきましたが、いかがでしたでしょうか?小説や歴史ドラマの題材にも多く選ばれるのは、やはり信玄の類稀なる軍才と、戦国最強の武田軍を指揮したリーダーシップによるところが大きいのではないでしょうか。山梨県甲府市を訪れることがあれば、信玄ゆかりの史跡や寺社を訪れ、歴史のロマンにふれてみたいと思います。